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2016年9月26日月曜日

柴田克巳と士族授産 3

 
 

「新潟県下高田住士族柴田克巳等ヘ就産資金貸下ノ件」(部分)
出典:『公文録・明治十七年・第百十八巻・明治十七年四月・農商務省(二)』(請求番号 公03782100
  国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/
 

【釈文】
    高田住士族就産会社設置
    主意書
第一条
 此会社ハ最ラ高田住士族就産ノ為メ葉茶菓樹植付ヨ
 リ養蚕製茶ニ至ル迄着実ナル力業ヲ起スヲ以テ主意
 トス
第二条
(省略)
第三条
 此業ヲ労力稼業スルモノハ先ツ同盟子弟ヲ以テ第一
 トシ逮ヒ無業無産士族ヲ雇役労銀ヲ給スルヲ第二ト
 シ実効ヲ以テ同郷士族ヲ誘導シ異日大結合ヲ成スヲ
 主意トス
第四条
 資本金ノ義ハ拝借スル処ノ六千円ニ有志輩ニヲヘテ
 四千円ヲ合積シ合算一万円ヲ以テ別紙予算ノ通リ起
 業スルモノトス
第五条
 拝借金底当ノ義ハ各自所持スル処ノ地券公債証ノ類
 ヲ以テ別紙割合ノ通リ政府江納ムルモノトス

(第六条以下省略)

   明治十五年十二月一日
中頸城郡高田住士族   
各町有志総代   
庄田直道  
柴田克巳  

 

 【読み下し文】
    高田住士族就産会社設置主意書
第一条 この会社は、最ら(もっぱら、か)高田住士族就産のため、葉茶・菓樹植付より養蚕・製茶に至るまで着実なる力業を起すをもって主意とす。
第二条 (省略)
第三条 この業を労力稼業するものは、まず同盟子弟をもって第一とし、逮(およ)び無業無産士族を雇役、労銀を給するを第二とし、実効をもって同郷士族を誘導し、異日大結合を成すを主意とす。
第四条 資本金の義は拝借するところの六千円に有志輩にをえて(於て、か)四千円を合積し、合算一万円をもって別紙予算の通り起業するものとす。
第五条 拝借金底当の義は、各自所持するところの地券・公債証の類をもって別紙割合の通り政府へ納むるものとす。
(第六条以下、日付・署名省略)

 
【コメント】
 前回コメントで言及した、「高田住士族就産拝借金再願」(明治15121日)の添付文書です。 

 最後の画像の左ページからは、14ページほど「授産金拝借連名簿」が続きます。1878(明治11)年の文書にも登場した柴田克巳と加藤直大も名前が挙がっています。 

 設立主意書で柴田克巳と連名になっている庄田直道は、おそらく明治時代に郷土史家として活躍した庄田直道と同一人物でしょう。『頸城郡誌稿』という刊行物の編集に関わったようです(「高田城下」『日本歴史地名大系』〔JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, 参照 2016-09-22〕)。
 
 

2016年9月24日土曜日

柴田克巳と士族授産 2


 

「新潟県下高田住士族柴田克巳等ヘ就産資金貸下ノ件」(部分)
出典:『公文録・明治十七年・第百十八巻・明治十七年四月・農商務省(二)』(請求番号 公03782100
  国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/

 
【釈文】
1枚目の左ページから)
潟農第二九号
    新潟県士族就産資金貸下之義
    上申
新潟県高田住士族柴田克巳初メ百七
十二名授産資金拝借之義県官稟請
ニ因リ篤ト審按候処該士族之義ハ廃
藩以来確実ナル業務ニ就ク者僅々ニ
シテ其他ハ何レモ日雇稼或ハ商業ニ従
事スルモ不馴ニシテ且資力ニ乏敷其目
的ヲ達スル能ハサル而已ナラス終ニ破産
ニ及ヒ現今策計殆ト竭ントスルノ場合
ニ立至リ候ニ付今般有志相謀リ養蚕
製茶ノ二業ニ従事シ将来生活ノ途ヲ
確実ニナサントスルニ当リ前陳ノ如ク何
レモ平素貧困ニシテ資本ノ欠乏ニ苦
ミ官貸ヲ請求スルハ不得止之事情ニ有
之且其事業タル士族適応ノ業務ニシ
テ施設ノ方法モ確実ト被存候間
該業為資本金六千円無
利子本年貸下ケ候月ヨリ二十一年六月迄
置据同年七月ヨリ向フ四ヶ年賦返納ノ
定ヲ以テ十六年度勧業委托金ノ内ヨリ
貸与就業確立候様篤ク保護為致度
依之別紙申牒書類写及指令按相添此
段相伺候条至急仰御裁可候也
   明治十六年九月十七日
農商務卿西郷従道  
  太政大臣三条実美殿
 
上申ノ趣聞届候事
   明治十七年四月十五日

 
【読み下し文】
潟農第二九号
    新潟県士族就産資金貸下の義
    上申
 新潟県高田住士族柴田克巳初め百七十二名、授産資金拝借の義、県官稟請により篤と審按候ところ、該士族の義は廃藩以来確実なる業務に就く者僅々にして、その他は何れも日雇稼あるいは商業に従事するも不馴にして、かつ資力に乏しく、その目的を達する能はざるのみならず、終に破産に及び、現今策計殆ど竭(つき)んとするの場合に立至り候につき、今般有志あい謀り養蚕・製茶の二業に従事し、将来生活の途を確実になさんとするに当り、前陳の如く何れも平素貧困にして資本の欠乏に苦み、官貸を請求するはやむを得ざるの事情にこれあり、かつその事業たる士族適応の業務にして施設の方法も確実と存ぜられ候間、該業資本金として六千円、無利子、本年貸下げ候月より二十一年六月まで据え置き同年七月より向ふ四ヶ年賦返納の定をもって、十六年度勧業委托金の内より貸与、就業確立候よう篤く保護致させたく、これによって別紙申牒書類写および指令按あい添え、この段あい伺い候条、至急御裁可仰ぎ候なり。
   明治十六年九月十七日
農商務卿西郷従道  
  太政大臣三条実美殿

上申の趣聞き届け候事
   明治十七年四月十五日

 
 


【コメント】
 農商務卿が柴田克巳らに対して養蚕・製茶等の資金の貸し付けを行うために作成した文書です。6千円の貸与が決定されています。柴田克巳らが希望した通りの金額ですが、新潟県の上申書や柴田らの願書は訂正後のものしか綴じられていません。おそらく最初はもっと高額の貸与を求めていたのだと思います。
 
 生糸と茶は当時の主要な輸出品です。明治11年に柴田らが採掘しようとしていた「石炭油」はどうなったのでしょうね。もうやめてしまったのでしょうか。
 
 この文書には、農商務卿の指令文按(案)、新潟県大書記官の「士族就産金拝借之儀上申」(明治1512月)、庄田直道・柴田克巳が新潟県令へ提出した「高田住士族就産拝借金再願」(明治1512月)が添付されています。ここで示した釈文・読み下し文と重複する部分が非常に多いため、添付文書の紹介は割愛します。ただし、「高田住士族就産拝借金再願」には、「高田住士族就産会社設置主意書」と名簿、予算書などが添付されています。なかなかに興味深いので、次回、「設置主意書」の一部を紹介しようと思います。
 
 添付文書の方が本文よりも年月が新しいですが(この文書は9月、添付文書は12月)、これは農商務省が上申書を一旦取り下げ、新潟県の上申書、柴田らの願書を訂正させているためです。上の2枚目の画像右ページに削除か所があるのも、おそらく新潟県などによる訂正を反映したものでしょう。

 

2016年9月22日木曜日

柴田克巳と士族授産


 
「新潟県士族柴田克巳外一名西南役尽力ニ付賜謁ノ件」(部分)
出典:『公文録・明治十一年・第百六十七巻・巡幸雑記第七』(請求番号 02415100) 国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/




【釈文】
    西南之役尽力ノモノヽ儀ニ付
    上申
高田住士族   
柴田克巳  
加藤直大  

右之者昨西南ノ役該町平民室孝次郎
ノ議ニ従ヒ奮テ徴募ニ応シ柴田克巳ハ三
等少警部加藤直大ハ警部補トナリ三等
警部牧村九八郎ヲ助ケテ頗ル尽力シ爾来
旧藩士族ノ人望ヲ得解隊後郷ニ帰リ石炭
油掘採ノ事ニ着目シ士族輩ヲ勧誘シ即
今其社ニ入ルモノ二百人醵金凡三千円素貧窮
士族ニシテ此金額ヲ合醵スルニ至ルモノ畢竟
両人ノ誠心鼓舞ノ力ラニ出ルモノニ有之其結
果ヲ遂ルニ至ラハ士族生計ノ方向相立其補
益亦少ナカラサル儀ニ付右概況具状仕置
候也
   明治十一年九月十二日
新潟県令永山盛輝  
  右大臣岩倉具視殿

 
【読み下し文】
    西南の役尽力のものの儀につき
    上申
高田住士族
柴田克巳  
加藤直大  
右の者、昨西南の役、該町平民室孝次郎の議に従ひ奮て徴募に応じ、柴田克巳は三等少警部、加藤直大は警部補となり、三等警部牧村九八郎を助けて頗る尽力し、爾来旧藩士族の人望を得、解隊後郷に帰り石炭油掘採の事に着目し、士族輩を勧誘し、すなわち今その社に入るもの二百人、醵金およそ三千円、素貧窮士族にしてこの金額を合醵するに至るもの、畢竟両人の誠心鼓舞の力らに出るものにこれあり、その結果を遂るに至らば士族生計の方向あい立ち、その補益また少なからざる儀につき、右概況具状つかまつり置き候なり
   明治十一年九月十二日
新潟県令永山盛輝  
  右大臣岩倉具視殿

 
【コメント】
 1878(明治11)年の天皇巡幸の際、戊辰戦争や西南戦争で活躍した人や、工業化や開拓、道路建設などに功績があった人たちが表彰されました。この文書は、新潟県令が柴田・加藤という二人の士族の功績を報告したものです。二人は西南戦争に参加し、帰郷後は「石炭油」(石油のことか)採掘の将来性に着目して、士族から資金と労働力を集めたといいます。新潟県令からの報告を受けた「御巡幸御用掛」は、こうした士族授産への積極的な姿勢を評価し、柴田・加藤の二人が「竜顔奉拝」できるように取りはからいました。

 柴田・加藤は、『国史大辞典』、『日本人名大辞典』にも名前が出てきません。本文中に「解隊後郷ニ帰リ」と書いてあるので、おそらくは越後国高田藩士だったのでしょう。高田藩は、廃藩置県までは榊原氏が治めていました。

 柴田・加藤については、他にも文書があります。次回紹介したいと思います。