2016年9月22日木曜日

柴田克巳と士族授産


 
「新潟県士族柴田克巳外一名西南役尽力ニ付賜謁ノ件」(部分)
出典:『公文録・明治十一年・第百六十七巻・巡幸雑記第七』(請求番号 02415100) 国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/




【釈文】
    西南之役尽力ノモノヽ儀ニ付
    上申
高田住士族   
柴田克巳  
加藤直大  

右之者昨西南ノ役該町平民室孝次郎
ノ議ニ従ヒ奮テ徴募ニ応シ柴田克巳ハ三
等少警部加藤直大ハ警部補トナリ三等
警部牧村九八郎ヲ助ケテ頗ル尽力シ爾来
旧藩士族ノ人望ヲ得解隊後郷ニ帰リ石炭
油掘採ノ事ニ着目シ士族輩ヲ勧誘シ即
今其社ニ入ルモノ二百人醵金凡三千円素貧窮
士族ニシテ此金額ヲ合醵スルニ至ルモノ畢竟
両人ノ誠心鼓舞ノ力ラニ出ルモノニ有之其結
果ヲ遂ルニ至ラハ士族生計ノ方向相立其補
益亦少ナカラサル儀ニ付右概況具状仕置
候也
   明治十一年九月十二日
新潟県令永山盛輝  
  右大臣岩倉具視殿

 
【読み下し文】
    西南の役尽力のものの儀につき
    上申
高田住士族
柴田克巳  
加藤直大  
右の者、昨西南の役、該町平民室孝次郎の議に従ひ奮て徴募に応じ、柴田克巳は三等少警部、加藤直大は警部補となり、三等警部牧村九八郎を助けて頗る尽力し、爾来旧藩士族の人望を得、解隊後郷に帰り石炭油掘採の事に着目し、士族輩を勧誘し、すなわち今その社に入るもの二百人、醵金およそ三千円、素貧窮士族にしてこの金額を合醵するに至るもの、畢竟両人の誠心鼓舞の力らに出るものにこれあり、その結果を遂るに至らば士族生計の方向あい立ち、その補益また少なからざる儀につき、右概況具状つかまつり置き候なり
   明治十一年九月十二日
新潟県令永山盛輝  
  右大臣岩倉具視殿

 
【コメント】
 1878(明治11)年の天皇巡幸の際、戊辰戦争や西南戦争で活躍した人や、工業化や開拓、道路建設などに功績があった人たちが表彰されました。この文書は、新潟県令が柴田・加藤という二人の士族の功績を報告したものです。二人は西南戦争に参加し、帰郷後は「石炭油」(石油のことか)採掘の将来性に着目して、士族から資金と労働力を集めたといいます。新潟県令からの報告を受けた「御巡幸御用掛」は、こうした士族授産への積極的な姿勢を評価し、柴田・加藤の二人が「竜顔奉拝」できるように取りはからいました。

 柴田・加藤は、『国史大辞典』、『日本人名大辞典』にも名前が出てきません。本文中に「解隊後郷ニ帰リ」と書いてあるので、おそらくは越後国高田藩士だったのでしょう。高田藩は、廃藩置県までは榊原氏が治めていました。

 柴田・加藤については、他にも文書があります。次回紹介したいと思います。

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